入学編〈59〉
あれから僕らは、昼時を過ぎたせいかほとんど人のいなくなった中庭にやって来て、設置されているベンチに腰掛けた。
そのとき見た先輩の表情はとても暗く、なんだか触れれば壊れてしまう、そんな印象だった。
しかし、僕はそんな先輩を見ても、なんだかさっきから落ち着かない。
あのおじさんから先輩が助けてくれてからというもの、どうにも心臓が変なのだ。
いつも以上に高鳴る鼓動は先輩にも聞こえているのではと思うほど大きく、体の全身が妙に熱い。
自分はどうしてしまったのだろうか……と思わずにはいられない体の変化に、僕は戸惑っていた。
「………………ごめん。」
「え?」
どうしたことかと思うそんな僕に、先輩がいきなりそう切り出した。
しかし、謝られる思い当たりがない僕はすぐに首を傾げ、先輩に聞き返すしかなかった。
「…………もう一人にしねぇとか言っておいて、言ってる側から一人にしてるんだから、もう本当に……バカだよな…俺…。」
「なっ!?そ、それは先輩に僕がココアを頼んだからで!?」
「………それだって、俺が言い出したことだ。
いずみが尻触られたって言ったとき、帰れば良かった……怖かったろ?……ごめんな?……俺………俺が…誘ったりしなかったら……。」
「や、やめてくださいっ!?
僕だって来たくて来たんですし、凄く楽しかったんですよ!?
それなのに、そんなこと言わないで下さい!?
た、確かにあの時は怖かったですけど……でも、先輩が助けてくれたから…僕は平気です。」
先輩は僕の言葉を聞いているのかいないのか、ただ俯いているばかりで、表情は見えなかった。
「──────俺も。」
「え?」
そんなとき、再び消え入りそうな声で先輩が話し出した。
「俺も、すげぇ楽しかった……。」
「だ、だったら……。」
「だけど、いずみを危険に去らすことになるのは嫌なんだよ……楽しかったけど……いずみが傷付くのは嫌なんだ…。
だから……ごめん、もう離れねぇから。」
「───ッ!?」
先輩はそう言ってから、急に僕を抱き締めた。
人がほとんどいなくなったとは言え、まだ何人か残っている中庭では、そんな僕らを若者や老夫婦などが怪訝そうな顔をしたり、二度見したりしてきて、僕は恥ずかしさに顔が赤くなった。
それに加え、さっきからおかしい僕の心臓や体もその症状を増し、顔だけではなく体すべてから発熱をしはじめた。
「せ、先輩っ、あ、あの……!?」
「…ごめん、もうちょっと…このまま……。」
「─ッ!?」
恥ずかしさに慌てる僕がそう言うと、先輩は僕の首筋に顔を埋めたままそう呟いた。
先輩の透き通るような声と首筋にかかる吐息に、僕の体は敏感に反応し体をビクつかせた。
なんとか声は我慢できたけど、その反応は先輩には筒抜けのため、余計に騒ぎだす鼓動に僕は目をギュッ瞑り恥ずかしさと戦った。
「……ありがとう、もういいよ。」
それからしばらくの間そうしていた先輩はそう呟いてからゆっくりと僕から体を離した。
それにより僕は先輩と目が合ってしまい、余計に体が熱くなった。
「い、いずみ、顔真っ赤だぞ!?だ、大丈夫か?やっぱり風邪引いたんじゃねぇのか!?」
「えっ!?」
僕の顔を見るなり、先輩は目を見開きそう言ってきた。
自分の顔が今どうなっているのかなんて分からないためなんとも言えないのだけれど、物凄く赤いことは間違いない。
それは体から起こる発熱で大体の予想はつく。
そんな僕を心配してか、先輩はおもむろに自分の手を僕のおでこにあてがった。
「──ッ!?」
しかし、まったく予想していなかったそんな行為に僕は大いに動揺してしまい、思わず体を仰け反らせた。
「うわっ!?」
「な、あぶっ!?」
しかしそれが良くなかった。
背もたれのない方向に仰け反ったため、僕はそのままベンチから後ろ向きに落ちそうになった。
やばい、と思った時には既に遅くて、僕は諦めて目をギュッと瞑った。
だけど、僕の体は地面に激突することはなく、いきなり引かれた腕によって再び柔らかいものに包まれた。
その柔らかいものは僕の心を和ます爽やかな石鹸の香りがして、一瞬何がなんだか分からなくなった。
「……ったく、危ねぇだろ馬鹿っ!?」
しかしそれがなんなのかはその一言で先輩の腕の中だと言うことが簡単に理解できた。
本日2度目のそれはさっきとは少し違い、僕の顔は先輩の胸に埋められている形になっていた。
そして、その先輩の胸から聞こえる心音は、僕の物と同じかそれ以上に鼓動が早く、何故か余計に僕の体は火照ってきた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですっ!?あ、ありがとうご、ございましたっ!」
心配そうに言う先輩から僕はそう言いながら無理矢理抜け出し、ベンチから立ち上がった。
それに先輩は怪訝そうな顔をしていたけれど、すぐに僕同様に立ち上がった。
「じゃあ帰るか。なんだかいずみの額も熱かったし、もしかしたら本当に風邪かも知れないからな。」
「え、か、帰るんですか?」
「当たり前だろ。
あんなキモいおっさんがいるところにいつまでもいずみを置いておけないからな。」
「で、でも……。」
「なんだ?」
先輩はどうやら早く帰りたいようで、自分の意見を言ってもいいのかどうか迷った。
しかし、言っておかないと後悔すると思い、僕は思いきって先輩にこう告げた。
「……プ、プレゼントっ!」
「…………は?」
「昨日、や、約束したじゃないですか、お世話になってるお礼に何か買うって。
だから、帰るならお土産売り場によってから帰りたいな…と思いまして。
あ、でも……先輩が早く帰りたいようなら帰っても…。」
最後の方は何だか心が折れそうで、小さくなってしまったけど、なんとかそう先輩に言えた。
「そ、そう言えばそうだったな…俺としたことがそんな大事なこと忘れてるなんて……よし、早く行くぞ。」
「い、いいんだすか?でも先輩早く帰りたい「いる、めっちゅいる。いずみからのプレゼント超欲しい。」……あ、はい。」
先輩はオロオロする僕に詰め寄って、本気の顔でそう言ってきて、僕は思わず冷や汗を流した。
そんな僕を先輩は気にするようすはなく、再び僕に右手を差し出してきた。
「あ、いえ、も、もう繋がなくても大丈夫ですよ。」
「……俺が繋ぎたいの……ん。」
断ったのに先輩は引き下がらずに、伸ばした手を少し不貞腐れながらさらに僕に近付けた。
「あ、あの「ん!」……わ、分かりましたから、そんな顔しないで下さい。」
渋る僕に先輩はさらに顔をムクれさせるものだから、僕は慌ててその手を掴んだ。
しかしそれはすぐに振りほどかれ、先輩はそれを違う握り方に勝手に変えてしまった。
それは指と指が絡み合うよいな結び方、いわゆる『恋人繋ぎ』と言う手の繋ぎ方で、僕の心臓が余計に騒ぎだす。
恥ずかしさ以上に僕の知らない感情が体の中でうごめいて、僕は何だか死んでしまいそうなほどにバクンバクンと心臓を動かした。
そんな僕とは対照的に先輩はさもそれが当たり前のように僕の手を引いて歩き出した。
その顔はさっきまでの不貞腐れたものではなく、いつも以上に爽やかな笑顔になっていて、僕は思わず目が合わないように俯いた。
今先輩と目が合えば、余計に鼓動が強くなる。
そんな確信があったから、僕はお土産売り場にたどり着くまでの間、ひたすらに地面を見つめた。
「お、これもいいな。」
「あ、あの…先輩…手を離してくれないと僕も見に行けないんですけど……。」
「お、あっちのも良さそう。」
お土産売り場に着いたと言うのに、先輩は一向に手を離してくれず、回りにいるお客や定員から何だか嫌な視線を感じてしまう。
それが嫌でどうにかその手をほどこうとしても、すぐに先輩は握り直すので、それは叶わなかった。
「お、俺これにする!」
そんな状況下の為、早々に決めて立ち去りたいと思い始めた僕に、先輩が何だか楽しそうにそう言ってきた。
言われてそっちの方を見てみれば、そこはどうやらキーホルダーやストラップなどが置かれているコーナーのようだった。
そのうちの一つを手にとって微笑んでいる先輩は僕にそれを翳(かざ)して見せた。
「き、綺麗~…。」
「だろ!?」
先輩の持つそれは小さなビンのキーホルダー。
中には濃い青、水色、透明の三色のこれまた小さなビー玉の入ったものだった。
それは本当に綺麗で照明が当たることによって、さらに輝いて見えた。
青色の似合う先輩にはピッタリの物だと僕は思った。
「良いですね、それ。」
「ああ、一目惚れってやつだ……因みにこっちはいずみのな。」
「え?」
そう言って先輩は嬉しそうに反対側の手を翳した。
そこにはさっきのものとタイプは同じだけど、中に入っているビー玉の色が違うキーホルダーが握られていた。
濃いピンク、薄いピンク、透明のビー玉のそれは先輩と色違いの物だった。
「これとこれ、あと一個ずつしかないから良かったな。」
「あ、あの……僕のも買うんですか?」
「当たり前だろ?折角なんだしお揃いにしようと思ってな……嫌か?」
「い、いや、嫌とかではなくて……そ、その…僕なんかとお揃いでいいんですか?」
「当たり前だ。その為に色々探してたんだし。
じゃあ、俺がいずみの買うから、いずみは俺の買ってくれ。」
「あ、はい。」
なんだか急すぎて、頭が追い付かない。
先輩は何故か知らないうちに僕の物を先輩が買うことになってるし、何故かお揃いの物を買おうとするし。
これは何か意味があるのだろうか、と考えずにはいられなかったけど、手を引いてレジに向かう先輩には何となく聞けなかった。
そして、それらをそれぞれ買い交換した。
先輩は何が入っているのか分かっているそれをドキドキしながら開けていて、なんだか僕も緊張した。
「へへ、いずみとお揃いだな。」
「はい、そうですね。」
「帰ったらスクールバックに付けような。」
「えっ!?」
「…………嫌なのか?」
「ち、違くて!その…そんな丸見えな所に付けていいのかなって…。」
「折角お揃いなんだから見えるところにつけなきゃ駄目だろ。」
「そ、そういうものなんですね……お揃いのものなんて、初めてかもしれません。
こういうのは大事に取っておくものだと思ってました。」
「……フフ、そんなの勿体無いだろ。もし壊れたり無くなったりしても、また一緒に来て買えばいい。
今度は絶対離れないから、安心しろ。」
「……また………。」
「嫌?」
先輩は優しい笑みでそう僕に問いかけてきて、僕はそれに素早く頭を横に振った。
確かに今日はいきなり痴漢にあったけれど、とても楽しかったから、絶対また来たいと思った。
だから僕はまた来たいと、そういう反応をした。そんな僕に先輩は笑ってくれて、なんだか安心した。
それから僕らはロッカーに荷物を取りに行き、帰りのバスへと向かった。
「綺麗な夕焼けだな。」
「はい。」
「…記念に写真でも撮るか。」
「え?」
「ホラ、いずみこっち来て。」
「え、ちょ、せ、先輩!?」
何を思ったのか、先輩は僕らの目の前にある夕日を見て、突然僕の体を自分の方へ引き寄せて肩を抱いた。
いきなりのその行動に驚く僕はただただ先輩に肩を抱かれながら先輩を見上げることしか出来なかった。
「いずみ、携帯見て。」
「ちょ、ま、待って先輩!」
──────カシャッ
「……撮れたかな?……アハハ、いずみすげぇ動揺してる。」
「だ、だって、先輩がいきなりすぎるから!も、もう一回!?」
「フフ、はいはい。ホラ、撮るぞ……いいか?……はいチーズ!」
いきなりだったため、ただ携帯を驚いた顔で見つめるしか出来なかった僕に再度チャンスをくれた先輩と今度はちゃんと写真を撮った。
見せてもらえば、大きな夕日をバックに撮られたそれは僕も先輩も凄く笑顔で、今日の楽しかった時間を思い出させた。
「あ、あの…それ、僕の携帯にも送ってください!」
「ああ。さて、そろそろ帰るか。確かバスの時間もそろそろだった筈だからな。」
先輩は僕の言葉に優しく微笑んで答えてくれ、再び僕の手を握って歩き出した。
手を握られただけで、いまだに僕の心臓はうるさいく騒ぎだすけれど、なんだかそれはとても心地よく、僕を自然と笑顔にさせてくれる。
今の僕は、恥ずかしかったはずのその行為をもっと先輩としたいとさえ思っている。
そんな新しい自分の気持ちを心の隅で感じながら、僕らは寮へと向かう帰路に着いた。
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